俳諧埋木デジタル化にあたって

 俳諧埋木(以下埋木)は北村季吟の著になる俳諧連歌の技法書である。
北村季吟(江戸初期)が先行する連歌の技法書や彼の師、松永貞徳(長頭丸)の口伝等を集成した。
それに季吟の採取した句、考察等を配置している。
季吟がこれを著したのは明暦二年(1655年)。
長く貞門の秘伝書とされていたが、延宝元年(1673年)に京の井筒屋から開板(出版)された。
この出版は当時談林俳諧の台頭に対抗して門弟の保持、拡大を企てたものだといわれている。
以後江戸時代の俳諧の技法書として広く普及する。
昭和35年、「発行所 古典文庫」が古典文庫第151冊「季吟俳論集」に収録。校正は尾形仂。
本テキストはそれを底本にする。ただし注訳等、著作権に触れる恐れのあるものは割愛した。
さて埋木の手書き本が藤堂家に伝わっている(現在伊賀上野市所蔵)。
この出版されたものを書写したのかそれとも出版の最終草稿から書写したかよく分からぬが、その奥付に

此書、難為家伝之深秘、宗房生依俳諧執心不浅免書写、且加奥書者也。
必不可有外見而巳。延宝二年弥生中七 季吟

宗房は後の芭蕉である、
藤堂新七郎良忠(俳号 蝉吟、季吟に師事)に仕え俳諧に親しんだ。
寛文十二年(1672年)、良忠の急死後、二十九歳の芭蕉は江戸へ出奔。
延宝二年(1674年)、京へ上ったか、伊賀へ帰ったか、季吟から埋木を伝授されたことになる。
「免書写」であるから書写した。
だがこの奥書は奇妙である。延宝元年に出版された書が何故、「必不可有外見而巳」なのか。
またこの奥書を、尾形仂は季吟の直筆と疑わないが、最近、直筆ではないという見解もある。
その奇妙さは残るが「埋木」は芭蕉の座右にあった。芭蕉の死後その遺品は、伊賀の半残に託された。
半残かその子孫が藤堂新七郎家へ献上したものと思われる。「必不可有外見而巳」であるから
主筋に返すべきと考えたともいえる。
埋木は若き芭蕉には秘伝?であったが、後年の芭蕉の弟子、許六や去来は持っていたらしい。
出版されているのだから、そう考えるのが当然でもある。
それが伝わるような話が去来抄にもある。
さてこの埋木、連歌から俳諧への橋渡しという点で蕉門俳諧を理解するために重要であるが、
それ以上に現代の我々に俳諧の種をどう見つけるかを教えてくれる。 


俳諧埋木デジタル化の作業について 埋木のデジタル化にあたってはスキャナーで読み込み、イメージファイル(コピー)を作成し それをOCRにかけた。識字率70%程度だったか。 以下イメージとOCRの読み取りテキストを照合し補正入力した。 スキャナー・OCR作業 心太 照合入力(まとめ晶) 晶、弥生、夕、夜、兎角、心太 校正(まとめ晶)  照合者の相互チェック 凡例作成 兎角 企画・監修 笹心太 2003年3月03日

凡例
縦書高速閲覧
プレーンテキスト

Back