「菫」考                           笹心太                  菫というと「菫の花咲くころ」  宝塚を思い浮かべる人も多い。それもあって乙女の花とイメージするが  思うには菫が似合ったのは二人。しかも男。  芭蕉と漱石。             (1999/3 俳諧通信掲示板にて) 1 芭蕉  万葉、古今、新古今において菫は、さほど詠われてはいない。  後世特に俳諧に影響を与えた歌といえば、  春の野に菫摘むにと来しわれそ   野をなつかしみ一夜寝にける  山部赤人  この歌を証歌として、「菫」に次のような掛りが定番化された。  「摘む、荒れたる宿、一夜、春のかたみ、野をなつかしみ」  俳諧の祖と仰がれる守武、談林俳諧の祖、宗因にも赤人から  繋がる以下の句がある。  野遊びは菫のみして菓子もなし 宗因  近けれど菫摘む野やとまりがけ 守武  そしてそれらの流れを「菫 ゆかし」とひとくくりに  したのが芭蕉であった。   「なにやらゆかしすみれぐさ」と出来たものの上五は揺れていた。   1 何となく何やら床し菫草  2 何とはなしに何やら床し菫草  3 山路来て何やらゆかしすみれ草  と変化し、また3の前書きは  「大津に出る道、山路を超えて」と  「箱根山にて」の2通りがあった。  この3に対して、こんな批評が寄せられた。  湖春曰く菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧みなりといへども  歌学なきの過ちなり。 湖春の根拠とするところ(証歌)は、次の二首。  春の野に菫摘むにと来しわれそ   野をなつかしみ一夜寝にける  山部赤人  箱根山薄紫のつぼすみれ   二しほ三しほたれか染めけむ  大江匡房  すなわち  野なら菫、山ならつぼすみれ。   湖春の批評に、芭蕉に代わって応戦したのが去来だった。  去来曰く山路に菫詠みたる証歌多し。湖春は地下(ちげ)の歌道者なり。  いかでかくは難じらけん、おぼつかなし」  地下というのは、在野、庶民と置き換えてもいいかもしれない。  地下に対語は堂上、アカデミック、宮人。  この去来の反論は苦しい。証歌多しといいながら、  証歌は挙げていないし、「いかでかくは難じらけん」の根拠は  山部赤人と大江匡房の歌であることは、つとに知られていたであろうに  おぼつかなしと逃げている。  いやそれ以上に問題なのは、湖春は地下(ちげ)の歌道者なりという  レトリック。「名も無い歌詠みなんぞの言うことは、あてにならないよ」  という露骨な傲慢さ。  何だか現在の掲示板のやりとりをみているよううな気にすら。  蕉門にも動揺があったのだろう。  菫の句の前書きが、箱根山から大津の山路に揺れている。 箱根山の前書きでは、大江匡房の歌を思い出させて、不利と 思ったのかもしれない。大津の山路に変更するのだが、 芭蕉は貞門の俳人としてスタートし途中談林に組し、さらには 俳諧の遠祖、宗祇の直系と自負した。 その宗祇の最終の地が箱根。京に戻る途中であった。 なにやらゆかしは宗祇を偲んでのものか。 では大津の山路はおそらく伊賀から大津へ抜ける山道であろうが 古くは壬申の乱時、大海人皇子が志賀の宮に攻め上った道であり、 若き芭蕉が主君の伴で京へ上ったであろう道である。 これもまたなにやらゆかし。 これまでの考察で、何やらゆかしの菫の句は、可憐な菫に感動してと 言うようなものではなかったらしい。 それよりも大きな問題がある。「証歌」云々のやりとりは、 本歌取りの延長であり、元禄の芭蕉の時代になっても、 まだ発句の完全独立とはいかなかったことを意味する。 だがそんなやりとりとは無縁に「なにやらゆかし」は広まり、 以後菫の句を手がけた俳人は芭蕉のこの句を意識するようになる。 山陰やわすれしころの菫草 千代女 骨拾う人に親しき菫かな 蕪村 地車におっぴろがれし菫かな 一茶 塊に菫咲たる鍬の上 虚子 大和路や紀の路へつヾく菫草 漱石 菫ほど小さき人に生まれたし 漱石 菫咲き落葉は踏めどおともなし 秋桜子 菫束ぬ寄り合い易き花にして 草田男 すみれ揺れ大鋸の急がぬ音  三鬼 まだまだある。大方の俳人が菫を詠んでいる。 2 漱石  やっと漱石までたどりついた。漱石は菫の句を二句作っている。  1 大和路や紀の路へつヾく菫草 漱石  2 菫ほど小さき人に生まれたし 漱石 まず1の句、芭蕉への挨拶句であろう 同時に、箱根路から大津路へ揺れた芭蕉へのイロニーでもある。 証歌云々など、子規の下で俳句を学んだ漱石にとって、 遠い昔の笑い話であったのだが、この句も  山路来てなにやらゆかしすみれ草  の句があってのもの、上の句を証歌(句)としているわけだ。 当然イロニーの名手、漱石もこのイロニ−に気付いている。 1 大和路や紀の路へつヾく菫草 漱石  明治29年 2 菫ほど小さき人に生まれたし 漱石  明治30年 さて2の句、風変わりな句である。この句写生を唱える子規が どう評したか、興味の湧くところだが、残念ながら伝わっていない。 2の菫の句から、十年ほどあとの作品の中で、菫のことが 触れられている。 「日本の菫は眠っている感じである。『天来の奇想の様に』と形容した 西人の句は到底あてはまるまい」草枕 明治39年 「菫程な小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつゞけ様に敲いているよう な気がする」文鳥 明治41年 ちょっと先走った。 あと2句ほど漱石に菫の句がある。 3 見付けたる菫の花や夕明かり 明治34年 4 骸骨を叩いて見たる菫かな  明治37年 3は英国に留学中の作。 「或詩人の作を読で非常に嬉しかりし時」と添書き 4は荘子や蕪村の影響を感じるが。 「日本の菫は眠っている感じである。『天来の奇想の様に』と形容した 西人の句は到底あてはまるまい」草枕 明治39年 この西人の句というのは、ワーズワースの詩だろうといわれている。 「或詩人の作を読で非常に嬉しかりし時」これもワーズワースだろう。 ではとワーズワース詩集を図書館で借りて読んでみたのだが、 『天来の奇想の様に』と感じさせられるものはなかった。 ただ借りた本があまりに古く、ぽろぽろとページがはがれてくるので あわてて読んだせいもあるかもしれない。 当時の日本人から見れば奇想かなと思えるところもある。 地に咲く菫の様を天の星のきらめきと表現しているところがあった。 これかな?たしかじゃーないが、 「日本の菫は眠っている感じである。『天来の奇想の様に』と形容した 西人の句は到底あてはまるまい」 星で表現されちゃったら、西洋の菫は眠るわけにいかない。 まさかこんな与太話じゃーなかろうが、漱石の句を考えて行くと ちょっとしたイロニ−にぶつかる。  見付けたる菫の花や夕明かり 明治34年 そう星になりきれない菫を見つけた。 漱石の菫4句のうち3句については、出自らしきものに 行き当たった。だが一句が謎めく。 3 漱石の謎めいた句  菫ほど小さき人に生まれたし 漱石  明治30年 この年あたりに漱石に何があったか、ひろってみると       夏目漱石事典 別冊国文学 No39 29年 30歳 4月 愛媛県中学を辞め第五高等学校講師になる。 6月 中根鏡と結婚 30年 31歳 6月 実父の夏目直克死去 7月 鏡とともに上京、鏡流産 9月 単身熊本に戻る 10月 鏡熊本に戻る 12月 小天温泉に旅行草枕の素材を得る。 31年 32歳 6月 鏡、投身自殺を図る 9月ごろから 鏡のつわりによるヒステリー症状が昂進。 そのころの漱石の気になる句をひろってみると 29年 1 冴返る頃を御厭ひなさるべし 2 大和路や紀の路へつづく菫草 3 永き日や欠伸うつして別れ行く 4 衣更へて京より嫁を貰ひけり 5 枕辺や星別れんとする辰(あした) 6 長けれど何の糸瓜とさがりけり 7 君が名や硯に書いては洗ひながす 8 累々と徳弧ならずの蜜柑哉 4は結婚を子規に知らせた手紙に書き添えた。 7は「内君の病を看護して」と前書き 8は子規の誉めた句だが、不安と重苦しさを感じるのは笹だけだろうか。 2の伸びやかさとは異質である。 30年 1 朧夜や顔に似合わぬ恋もあらん 2 木瓜咲くや漱石拙を守るべく 3 菫ほどな小さき人に生まれたし 4 不出来なる粽と申しおこすなる 5 蟷螂の何を以ってか立腹す 6 こうろぎよ秋じゃ鳴こうが鳴くまいが 7 月に行く漱石妻を忘れたり 8 鳴き立ててつくつく法師死ぬる日ぞ 2は後年「草枕」のフレーズに取りこまれるし、 3は後年「文鳥」のフレーズに取りこまれる。 1,4にある句の影響を感じるがそれは後で。 6のこうろぎは(虫に車) 7 「妻を遺して独り肥後へ下る」と前書き 5,6,8 身辺の虫を題材にしているが、漱石の鬱屈を写し出しているようだ。 31年 1 有耶無耶の柳近頃緑なり 2 湧くからに流るるからに春の水 3 海を見て十歩に足らぬ畑を打つ 4 夜相撲やカンテラの灯をふきつける 5 病妻の閨に灯ともし暮るる秋  以上各年の句は漱石俳句集(岩波書店)から拾った。 この年の漱石の句は物憂く悲しい。   どうも鏡との結婚はうまくいってなかったらしい。 昔には珍しく夫婦二人だけ、しかも二人にとってなじみのない土地。 一旦鬱屈がたまると逃げ場がない。  菫ほどな小さき人に生まれたし は、そんなときに生まれた句か。 だがまて、30年の春といえば、鏡は身重。 そのとき胎児回帰願望とも取れるこの句が作られたのだ。 鏡の流産の本当の原因は何だったんだろう。 そして二度目の妊娠時、鏡が自殺を図ったわけは。 30年に奇妙な句がまだある。 1 朧夜や顔に似合わぬ恋もあらん 4 不出来なる粽と申しおこすなる まず4の句、鬼貫の  こひしらぬ女の粽(ちまき)不形(ふなり)なり を踏まえて、女が漱石の家へ粽を送り届けてきたとしたら、 朧夜の漱石の恋の相手かもしれぬ女。 文鳥にでてくる「昔紫の帯上でいたづらした女」の面影。 その女を鏡が感じていたとしたら。 鬼貫というのは鬼のような面だからと自分に付けた号、 (それは俗説で紀貫之を超えた者という意味合いらしい) 1も4もその鬼貫の恋の句で遊んだだけのことと、漱石は笑うかもしれない。 長々菫について書いてきた。  最初 こう書きき出した。  思うには菫が似合ったのは二人。しかも男。  芭蕉と漱石。 だが二人の菫を追って行くと  山路来て何やらゆかしすみれ草 (芭蕉)  菫ほど小さき人に生まれたし  (漱石) 二人の動揺、かげりへ行きついてしまった。 それゆえにこの2句が後世に残ることになったのかもしれない。 で  菫など似合う男はいない。 補足 上の菫について考えるきっかけになった、  漱石の菫の句、2つの形で引用している。  菫ほど小さき人に生まれたし  俳句大歳時記(角川)  菫ほどな小さき人に生まれたし  漱石俳句集(岩波) 笹は3年前から「菫ほど」で覚えているのだが、 岩波では句稿23として、「菫ほどな」を採録されている。 さらに角川の方の「ほど」は「程」。 考えられる理由は 漱石の句稿は子規の批評、添削を望んで送られたので 1 字余りを嫌っての子規の斧正か 2 松山弁もどきを、生粋の松山人である子規が嫌ったか 2については、案外面白い問題を含んでいるかもしれない。 また機会があったら考えよう。